チェロを担いでどこまでも       
                                  マンドロンチェロ 佐藤真悟

2021年8月に響に加わった佐藤です。
大学時代にマンドロンチェロを始めた私ですが、今年の4月に社会人の仲間入りを果たし、
生活が落ち着いたら…そうだなぁ社会人2年目以降からどこかの団体に混ぜてもらおうかなぁ、
などと考えておりました。しかし、自身が想定以上に辛抱弱く、社会人生活4ヵ月の時点で響の門をたたきました。
中途半端な時期にも関わらず迎え入れてくださったこと、本当にありがとうございます。また合奏ができて嬉しいです。

さて、「冒頭で大学時代からマンドロンチェロを〜」と申し上げましたが、
私とマンドロンチェロ、もといマンドリン合奏との出会いは、私が物心つく前にまで遡ります(Fig.1a)。
私の出身地、秋田県にもマンドリンの社会人団体があり、私の父と母はそこでギターとマンドリンを弾いておりました。
両親がなんの楽器を弾いているのかよくわかっていなかった頃から合奏風景を見ており、
少し成長してからは舞台設営などの手伝いをしておりましたので、マンドリンとの付き合いはかれこれ25年になります。
そんな私も大学入学後は演奏する側になりました。
大学のサークルを起点に相棒のマンドロンチェロを担いで、山形・秋田の社会人団体、
マンドロンチェロだけで合奏する血の気の多い団体(Fig.1b)など、様々な場所で合奏してきました。
合奏が好きで集まっている、そんな人たちとのつながりが広がっていくのが楽しくて仕方がありません。
そして今年は響の方々とつながりを持つことができました。
マンドリン合奏を通じた不思議な縁を大切にしながら、これから先もマンドロンチェロを担いで活動していきたいです。
社会人としても、奏者としても未熟な私でありますが、これからもよろしくお願いします。

 
Fig.1 (a)何を持たされているのかよくわかっていない幼少期の佐藤 (b)チェロだけで合奏する血の気の多い団体

マンドリンを始めた経緯について       
                                  マンドリン   松濱 純司

2021年4月にマンドリンアンサンブル響に入部しました松濱(まつはま)です。
「マンドリン」という楽器については、中学生の時に通っていた塾の講師から、授業の合に、
何気無く高校時代のマンドリン部のエピソードについて語られたことが、
頭の片隅こ記憶され、それが、不思議な縁となっております。
東京農業大学に進学し、部活の勧誘の際、マンドリンという楽器を聞いたことがあったことから、
強引な勧誘で部室に連行され、初めてマンドリンの音色に触れました。
コンマスの方が対応されたのですが、その時のピッキングによる楽器から発せられた音色と、
音符が空中に浮いているイメージを受ける衝撃的な感覚を受け、
そのコンマスの方のマンドリンの音色に魅せられて、入部しました。

東京農業大学農友会マンドリン部は、大学のイメージからして、音楽は似合わない、
田舎者の集まりで、初心者から楽器を始める人が多く、安易な動機で入部しましたが、
練習はは想像を絶し、楽しさより、弾けない悔しさや、苦しさの方が、ほとんどでした。
今も私がマンドリンを続ける動機として、そのコンマスの方の影響が大きく、
その方の情熱と行動力の凄まじさの印象が、自分の人生において圧倒され心に深く刻まれています。
入部1年の定演のトリの曲は、ボッタキアーリ作曲の歌劇「影」大幻想曲でした。
(この重厚な曲の暗さに同期のほとんどが退部しましたが・・)、
コンマスの方は、スコアをもらいに同志社大学マンドリンクラブへ行き、
その後、中野・二郎氏(当時84歳)の自宅を訪ね、マンドリン・ギター界の権威者の話を聞きに行かれた人でした。
その資料から、中野 二郎氏とコンマスの対談の一文を紹介します。


「あんたも今はこうやってマンドリンに熱をあげているが、どうせ働き出せば、
すっかり学生時代の気持ちは忘れてしまい、戻っては来んだろう。今までそういう人間を何人見てきたか。
みんな消えていった。あんたもそうだ」